緩慢なる自殺? 拒食による「痩せの極み」が憧れられる理由とその特殊効果【宝泉薫】
こういう人は彼女だけではない。「痩せ」を極めることに生きる意味を見つけ、両親を納得させ、その意志を貫いて、21歳で亡くなった人がいる。
その最期については、拙著『痩せ姫 生きづらさの果てに』の版元経由で、彼女の父が筆者に送ってくれた手紙で判明した。そこには「多分、人生で最高の時間を過ごせています」などと綴られ、自らの死後に届けられることが前提だったことから、
「やっとなんです。やっと、すべておしまいにできた」
とも書かれていた。
こうした生き方及び死に方に憧れる痩せ姫も少なくない。それがなぜなのか、参考になるかもしれない指摘がある。前出の本のまえがきで紹介した心理学者・植木理恵の言葉だ。
「人はみな死にたいんです。でも、めちゃめちゃ生きたくもある。死にたいけど生きたいという問題を解決するのは、死ぬことなんです」
つまり、人生を深く考えれば考えるほど、死に誘われやすいともいえる。実際、生と死の問題を突き詰めがちな宗教家や哲学者、芸術家たちにも拒食に惹かれ、痩せを極めて死ぬ人たちがいる。断食によって即身仏や聖女を目指したり、シモーヌ・ヴェイユやフランツ・カフカのように粗食や菜食をしながら思索に耽り、その不健康な生活が命取りになったり。現代の痩せ姫たちもその根底には、生をめぐる深刻な葛藤があり、人生の本質に迫った発言は宗教や哲学、芸術におけるそれを思わせたりもする。
もともと「痩せたい」気持ちも強いから、それを極めることで死に近づき、楽になりたいという方向へも進みやすいわけだ。ただ、がんにおける緩和ケアがほぼ死を迎えるための準備であるのに対し「痩せ」を極めるという緩和ケアはそれだけとも限らない。そうやっているうちに、生きていくのもありかもしれないという方向に変わることもある。
前半で触れた遠野なぎこは、なかば絶望しつつも、何かが変わることを期待してさまよっているのかもしれない。いや、多くの痩せ姫がそういう闇のなかで光を探しているのだろう。
文:宝泉薫(作家、芸能評論家)